津和野文化ポータル

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  1. 岡熊臣

岡熊臣 おかくまおみ Oka Kumaomi(1783-1852)

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藩校養老館学則制定者

 岡熊臣は1783年、木部の山下というところで冨長山(とみたけやま)八幡宮宮司の岡忠英の長男として生まれました。
 熊臣は早くから祖父や父から四書五経(ししょごきょう)や国学を教えられ、自らも進んで自宅にあった源平盛衰記(げんぺいせいすいき)など歴史ものの本をたくさん読みました。14歳の時に和歌を習い始め、15歳で国学者の本居宣長(もとおりのりなが)を知るとともにその考え方に大きく影響を受けました。後に熊臣の最初の神道哲学研究の著書である「三大考追考」は、宣長の弟子であった服部中庸の「三大考」を補ったものでした。
 25歳になると江戸に出て、本居宣長の門人村田春門のもとで国学を学びました。翌年津和野に帰り、名前を熊臣と改めました。その後熊臣は国学や和歌に関する書物を数多く著すとともに、1815年、30歳のときに自宅に塾を開きました。「桜蔭館(おういんかん)」と命名したこの塾には、藩内はもちろん、隣の長州藩からも塾生が大勢あつまったということです。後に藩校養老館の改革の際につくられた学則はこの桜蔭館の学則がもとにされました。
 1816年に大国隆正が津和野に帰ったおり、熊臣は久しぶりに隆正と会い国学について語り合いました。これを機に江戸の平田篤胤の門人となり、以後教えを受けることになりました。
 35歳の時、父が亡くなり、熊臣は八幡宮の仕事を引き継ぎました。以後、国学や和歌に関する書物はもちろん、柿本人麿(かきのもとひとまろ)の伝記や兵学に関する書物などにも取り組みました。なかでも若い時から取り掛かり、62歳の時に完成した「日本書紀私伝(にほんしょきしでん)」81巻は、熊臣の書いた本の中で最も高く評価されているものです。
 67歳のとき、藩校養老館に新設された国学部の教師になりました。増築された養老館も開館にあたり、熊臣に養老館の学則の制定が依頼されました。しかし、すでにこのころから体力が衰えはじめ自宅で過ごすことも増えていました。熊臣は69歳でその生涯をとじることとなりました。
 現在、岡熊臣旧宅は津和野町指定史跡として保存され、木部の歴史を守る会によって管理されています。

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