津和野文化ポータル

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  1. 大庭又三郎

大庭又三郎 おおばまたさぶろう Oba Matasaburo(不明-1778)

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人物のイメージ

江戸中期の農地開発者

 又三郎は、小瀬村(こぜむら)で生まれましたが、生まれ年は分かっていません。いろいろな活動の記録から考えると1700年頃(元禄13)の生まれだと思われます。百姓の家の生まれなので、庄屋などの裕福な家ではありませんでしたが、農業以外になぜ土木技術を身に着けていたのかは謎です。一説には若いころに大阪で学んだとも言われています。
1752年(宝暦ほうれき2)頃の古い文書「小瀬村又三郎覚書」などには、又三郎が工事をした記録が書かれています。1723~1732年(享保きょうほう8~17)からは、小瀬地区の田に水を入れるために、水除け(大小7ヶ所)、堤(つつみ)(大小2ヶ所)、溝手(みぞて)(2ヶ所)などの工事を行っています。脇本(わいもと)地区から水を引いているため、その距離は545mにもおよびます。1747~1750年(延享4~寛延3)には、木原(現益田市)に新田開発のための用水工事を行いました。ノミだけで岩盤をくり抜く工事で、その長さは約54mでした。1750~1765年(寛延3~明和2)には、向横田(むかいよこた)・高田村・蟠竜湖(ばんりゅうこ)などの工事も行っています。
又三郎は農家の生まれなので名字(みょうじ)がありませんでしたが、1765年(明和2)に「並庄屋格」になって、1768年に名字御免(みょうじごめん)となり大庭の姓を名乗ることとなりました。1768~1769年(明和5~6)、青原地区の小徳城峠(ことくじょうとうげ)(山陰道)の工事を行っており、この仕事が最後となりました。1778年(安永7)に亡くなりました

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