津和野文化ポータル

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  1. 森鷗外

森鷗外 もりおうがい Mori Ogai(1862-1922)

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文豪

 森鴎外こと森林太郎は、1862年(文久2)、藩の内科医であった森静男の長男として生まれました。
 林太郎は6歳になったときに論語の素読(そどく)をはじめ、7歳で孟子(もうし)を習いました。8歳になって養老館へ入学しましたが、その秀才ぶりは群を抜いていました。入学から3年目の1872年に養老館が廃止されたことを機に、東京で勉強するために父とともに上京しました。 林太郎は13歳の時に東京医科大学予科へ入学しました。年を2歳も偽っての入学でした。16歳で医学部本科へ入学し、卒業後は軍医として陸軍省へ入省しました。1884年(明治17)、23歳のとき衛生学研究のためドイツ留学を命じられ、ライプチッヒ、ミュンヘン、ベルリンで学びました。4年足らずの留学で、衛生学はもちろん、卓越(たくえつ)した語学力でドイツ文学等の研究も行いました。
 日本に帰ってからは、東京医学校および陸軍大学の教官となりました。また1891年(明治24)、「舞姫(まいひめ)」を発表、「鴎外」というペンネームを用いて作家活動をスタートさせました。以後「うたかたの記」や「文づかひ」など数多くの作品を発表しています。
 32歳の時、軍医学校の校長に任命されました。1894年(明治27)に日清戦争が始まると林太郎は第二軍軍医部長として出征しました。37歳のとき十二師団軍医部長として小倉に赴任し、翌年日露戦争が勃発すると第二軍軍医部長として出征、戦場にあっても暇があれば読書をし、詩や短歌をつくり、それらは凱旋後(がいせんご)に「うた日記」として刊行された。
 1907年(明治40)、林太郎46歳で軍医の最高峰、陸軍軍医総監(そうかん)に任命されました。48歳で文学博士になり、医学、文学の両博士の称号を得ました。
 1917年(大正6)、56歳で帝室(ていしつ)博物館の館長に、58歳で帝室美術院の院長になりました。晩年は奈良の正倉院の管理のためたびたび奈良を訪れましたが、病気のため1922年(大正11)7月、60歳にてついに帰らぬ人となりました。
 鴎外の遺言には「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」とあり、死に際まで生誕の地、津和野の地のことに思いをはせていたものと思われます。
 現在、森鴎外の生家は森鴎外旧宅として国の史跡に指定されています。

「森鴎外」の表記について

固有名詞である森鴎外の「鴎」の字の編は、正しくは「区」ではなく「區」と表記するべきところですが、「區」を編にした「鴎」の字は環境依存文字であるため津和野町ホームページ上においては、新字体を使用しております。津和野文化ポータルHP上では、混合し使用したうえで不具合が出ていないか確認しているところです。

津和野町では、出版物など環境に依存しないものに関する表記については、旧字体の「鷗」を使用するよう努めています。

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