津和野文化ポータル

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  1. 福羽美静

福羽美静 ふくばよしず Fukuba Yoshizu(1831-1907)

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人物のイメージ

幕末〜維新期の藩主のブレーン

 幼名を文三郎(ぶんざぶろう)といい、1831年、父美質が代官として赴任していた木部村山下で生まれました。子供のころの事故が原因で体が不自由で、父の友人から学問に打ち込めば役に立つ人物になれると言われ、学問に力をいれるようになりました。
 19歳で藩校養老館に入学し、漢学や兵学を学びましたが、藩の命令で国学を専門に修めることとなりました。22歳になり、京都に出て大国隆正の塾に入って熱心に勉強に励みました。4年間の京都留学ののち津和野に帰り、養老館で国学の教授を勤めましたが、その後藩主の命令で京都や大阪に出かけ当時の世の中の情勢を津和野へ伝えています。
 明治に入り、美静は天皇大阪行幸(ぎょうこう)に際して古事記をご進講する機会を得ました。これを機に天皇および皇后に和歌のご指導を行ったり、侍講(じこう)という役について天皇に様々な学問の指導を行ったりもしました。
 1875年、44歳で元老院議官になり国の立法機関に配属になりました。49歳で文部省御用掛を兼務し、1890年の帝国議会の発足にあたっては、貴族院議員に当選し、議会を通じて国政に参加しました。
 美静は1907年に77年の生涯を閉じました。子供のころの事故で障害を抱えながらも天性の才能と不断の努力で日本の国づくりに大いに貢献した人物でした。美静は和歌や書道にもすぐれ、扁額(へんがく)や短冊(たんざく)などがたくさん残されています。

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