山陰道(野坂峠越)
- 国指定 史跡
江戸時代、山陰地方の国々を結び、人や物資の往来の動脈として機能した街道の遺跡です。
近世の交通の歴史を知る上で貴重であり、既指定の蒲生峠越(鳥取県岩美町)に加えて、島根県津和野町に残る徳城峠越と野坂峠越が追加指定されました。
徳城峠と野坂峠は、幕末の津和野百景にも選ばれており、当時でも有名な場所であったと考えられます。また、この二つの峠は高低差が大きく、街道の難所でもあったと思われます。
野坂峠は僅か1.5 kmですが、津和野城下町の出口にあたる口屋から関所・茶屋・国境(長州藩との境)といった、江戸時代の街道と附属施設等が凝縮されている区間です。街道幅は約3mで統一されており、地盤が弱い場所などは石垣と石敷きで整備されています。また、湿気が多い場所では、対策としての側溝や横断溝、石製暗渠などの整備された遺構が良好に残っています。野坂峠は、城下町と国境の間を極めて近距離で繋ぐ特殊な位置にある区間です。歴史的にも重要な場所であり、幕末期には津和野藩が長州藩との交渉を行った場所であり、明治5年(1872)当時11歳の少年であった森林太郎(鴎外)は、この道を通って上京しました。