山辺丈夫 やまのべたけお Yamanobe Takeo(1851-1921)
- 人物
山辺丈夫は1851年(嘉永4)に津和野町森村(現在の津和野小学校の敷地内)に藩の大目付、清水格亮(かくすけ)の二男として生まれました。4歳のときに本町の山辺家の養子となり、養父正義のもとで武道や学問を学びました。
藩校養老館に入学後、その才能を発揮し、藩主から成績優秀者に与えられる賞をもらうとともに、15歳で槍術(そうじゅつ)初段の免状をもらうなど、いっそう文武に励みました。
19歳の時、藩の命で文学修業のため東京に出て、郷土の先輩であった福羽美静の倍達塾(ばいたつじゅく)や西周の育英社(いくえいしゃ)にかかわって洋学を学びました。22歳の時大阪に行き1年間小学校の教員を務めることになりました。翌年東京に戻り、ふたたび西周の塾に入り英語を学ぶとともに、旧亀井藩主の養子茲明(これあき)に英語を教えています。これが後に茲明に随(したが)って渡英するきっかけとなったといわれています。
26歳の時、亀井茲明の随行としてイギリスに渡りました。丈夫は保険業を学ぶため、ロンドン大学に入学し経済学を専攻しました。一方、当時日本では渋沢栄一らにより民間の紡績(ぼうせき)工場の設立が計画され、その実務担当者が求められていました。このことを聞いた丈夫は、自らその担当者になるべく申し出て、あらためて機械工学を学ぶためロンドン市内のキングス・カレッジに入学しました。その後、マンチェスターに移って紡績工場に勤め、技師として働くとともに日々製造品の組み立て方法などの研究を続けました。
1880年(明治13)、亀井茲明とともに日本に帰ると、渋沢栄一(しぶさわえいいち)らと日本最初の組織的紡績工場である大阪紡績会社を設立、その後取締役として綿糸(めんし)の製造に日々努めました。日清、日露戦争時には軍から被服の製造の命を受け、新工場を建設し、新たに機械を導入してその対応にあたりました。
1914年(大正3)、大阪紡績会社は三重紡績会社と合併、我が国最大の紡績会社、東洋紡績(とうようぼうせき)会社(現在の東洋紡)が誕生しました。30年におよぶ紡績業の業績が認められ東洋紡績会社の初代社長に就任しました。丈夫65歳の時のことでした。
丈夫は1921年(大正10)、須磨の自宅で71歳の生涯を閉じました。丈夫の頌徳碑(しょうとくひ)が嘉楽園に建てられています。