高岡直吉 たかおかなおきち Takaoka Naokichi(1860-1942)
- 人物
直吉は1860年(万延元)、高岡道敬の長男として後田山根町で生まれました。藩校では漢学や武芸を学び、廃藩後は浜田の県立英学所で英語を学びました。1875年(明治8)、16歳の時に上京し、翌年官立東京英語学校(後の東京大学)に入学しました。
直吉は19歳の時に大学に来た北海道開拓使係官に影響を受け、北海道開拓を決心し、官費生(かんぴせい)として札幌農学校へ入学しました。同校にはアメリカ人教師が多くいましたが、すでに英語に通じていた直吉の成績はいつも抜群でした。
22歳で札幌農学校を卒業、翌年山口県の職員として山口に赴任しました。5年にわたる山口での生活ののち、ふたたび北海道に帰り、増毛(ましけ)郡や宗谷(そうや)郡、根室(ねむろ)郡などの郡長を歴任し、36歳で北海道庁に入りました。直吉はアイヌの状況調査を「北千島調査報文」としてまとめ、さらにオーストラリア、アメリカへの出張の際にまとめた膨大な復命書は「国有未開地処分法」として成果をみました。
直吉は、49歳からの10年間を県知事や市長としてその手腕を振るいました。宮崎県知事、島根県知事、鹿児島県知事を歴任するとともに、門司(もじ)市長、初代札幌市長として地域の発展に尽力しました。特に札幌市長時代には医療施設の充実、上下水道の整備、電車の市営化など、北海道の首都的機能の充実に努めました。病気を理由に67歳で市長を引退、1942年(昭和17)、東京の自宅で83歳の生涯を閉じました。
日原の晩越(おそごえ)発電所跡にある堀藤十郎の功績碑や嘉楽園の福羽美静の頌徳碑(しょうとくひ)の碑文はいずれも直吉によるものです。