大国隆正 おおぐにたかまさ Oguni Takamasa(1792-1871)
- 人物
津和野本学を説いた国学者
1792年、今井秀馨(いまいひでたか)の長男として江戸の津和野藩邸で生まれました。9歳の時にいろは歌に興味をもち、11歳で父から50音図を習いました。隆正は日本語の言葉の音の微妙な変化の中に宇宙の普遍の真理を悟ったといいます。
15歳の時に平田篤胤の塾に入り、本格的に国学の勉強を始めました。時を同じくして幕府が設立した昌平校(しょうへいこう)に入り儒学を学びました。昌平校を優秀な成績で卒業した隆正は、昌平校の舎長を務めることになりました。
27歳の時に藩の許可をもらって長崎へ留学し、五か月間オランダ語や天文学、書道などを学びました。江戸に帰った隆正は、神代の研究を始め、「古伝通解」などの書物を著しました。37歳の時に藩の命令で武具の管理をする役に就きましたが、1年後に仕事を辞めて脱藩しました。
その後、姓を今井から野々口に改め、江戸や京都、大阪で私塾を開いて国学を講義しました。彼の学問は「本教本学(ほんきょうほんがく)」と呼ばれ、次第に塾生も増えていきました。その後、播磨の小野藩に招かれて帰正館(きせいかん)という学校を創立したり、姫路藩や福山藩に招かれて国学を講義したりもしました。
津和野藩主の亀井茲監は、彼を津和野藩に復帰させ養老館の国学の教師としました。京都に住むことを許可し、一年のうち江戸と津和野にそれぞれ百日滞在し生徒を教えることになりました。隆正は、茲監に尊王攘夷の思想について説くとともに、「国学を本学と称すべし」と茲監に進言し、養老館の国学を本学と改めさせました。
1867年12月に王政復古(おうせいふっこ)の大号令が出されました。これは隆正の門人、玉松操(たままつみさお)が、岩倉具視(いわくらともみ)公に説いた結果だと言われています。また、王政復古により新政府に神祇官(じんぎかん)が再興し、亀井茲監が事務局判事に、福羽美静が判事となったことも隆正の影響でした。隆正自身は高齢ということもあり、神祇官の諮問役を務めました。
隆正は1870年、住まいを東京に移しましたが、翌1871年、病気のため東京の津和野藩邸で亡くなりました。80歳でした。