津和野文化ポータル

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  1. 西周

西周 にしあまね Nishi Amane(1829-1897)

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日本近代哲学の祖

 西周は1829年、医者西時義(にしときよし)の長男として森村(今の津和野小学校校門の辺り)に生まれました。4歳から父に孝経(こうきょう)の手ほどきを受け、11歳で養老館に入りました。このころの周の脇目もふらない勉強ぶりは「西周の油買いと米搗き」として今に語り継がれています。
 19歳の時、周の俊才さに目を付けた藩は、周に儒学を勉強するようにとの命令を行い、周は藩校養老館の教師となりました。翌年、大阪へ出ての松陰塾に入り、その一年後には今度は岡山藩の閑谷(しずたに)学校に入学し勉強に励みました。二年の遊学を終え津和野に帰った周は、養老館の寮長になりました。
 24歳の時、江戸勤務を言い渡され、オランダ語や数学を学びました。26歳で脱藩し、さらに勉強を深めた周は、30歳で蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝並として幕府の洋学校採用されました。
 35歳の時、幕府の命令で周は法学者の津田真道(つだまみち)らとオランダに留学することとなりました。オランダでは法学、経済学、統計学などを学ぶとともに、哲学の研究も熱心に行いました。今日一般的に使われている「哲学」「芸術」「理性」「科学」「技術」などの言葉は西周によって考案された訳語です。
 帰国後は、開成所(かいせいじょ)(東京大学の前身)の教授に任命され、また将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)のフランス語の指導も行いました。その後も慶喜は機会あるごとに周に意見を聞きました。信頼を得た周は39歳で徳川の設置した沼津(ぬまづ)の兵学校の校長に抜擢されました。
 明治の新政府になってからは、兵部省(ひょうぶしょう)(陸軍省)、文部省、宮内省(くないしょう)の官僚を歴任するとともに、明治天皇の侍講(じこう)として、博物学、心理学、英国史などの講義を行いました。陸軍省時代には軍人(ぐんじん)勅諭(ちょくゆ)・軍人(ぐんじん)訓戒(くんかい)の草案(そうあん)を起草に関わるなど、軍政の整備と軍の精神の確立につとめました。また、一方では森有礼や福沢諭吉らとともに明六社を結成して、機関紙『明六(めいろく)雑誌(ざっし)』を発行し、西洋の哲学書の翻訳や紹介なども行いました。
 1890年、61歳の時に帝国議会が開設され、周は貴族院(きぞくいん)議員となりました。後にそれまでの業績が認められ勲一等瑞宝章が与えられるとともに男爵が授けられました。周は1897年1月31日に68歳でその生涯を終えました。
 現在、西周の生家跡には彰徳碑が建てられ、4歳から過ごした家は西周旧居として国の史跡に指定されています。

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