堀氏の歴史
堀家は鎌倉時代、津和野に地頭として下向した吉見氏に従って畑迫に土着した一族で、戦国時代には吉見氏のもとで鉱山開発を行っていたとされています。
堀氏が居住した畑ヶ迫村には銀山があったことから、江戸時代になると幕府直轄領である石見銀山領となります。津和野藩領に接して畑ヶ迫村、十王堂村、石ヶ谷村、中木屋村、日原村の計5ヶ所が石見銀山領の代官の支配下に置かれており五ヶ所村と呼ばれていました。
江戸時代の堀氏は、石見銀山領の中の笹ヶ谷銅山の経営を行う銅山師たちの一人でしたが、天保8年(1837)に大規模な鉱脈に行き当たるなど、次々に鉱脈を発見して堀氏は隆盛を極めました。そして、幕末には銅山惣年寄役につくなど、他の銅山師より優位な立場になっていきます。また、資金力においても、津和野藩・浜田藩・長州藩など周辺諸藩への御用金の融通や、幕府代官所による港湾・道路等整備への献金を行うなど、当地域の有力な一族だったようです。
堀氏では第8代以降、16代まで代々「藤十郎」を襲名しています。明治8年(1875)に堀家の15代当主として家督を継いだ堀礼造(1853―1924)は、笹ヶ谷銅山の他、島根県内では邑智郡の銅ヶ丸、美濃郡の都茂、出雲八束郡の宝満山、山口県美祢郡の長登、兵庫県の多田、その他因幡、丹後、九州方面にかけて数十カ所の鉱山経営を行い、「中国の銅山王」とも呼ばれました。
その他、明治25年(1892)には私設の畑迫病院を創設し、大正3年(1914)に石見水力電気株式会社、大正7年(1918)に石見製紙株式会社を設立するなど、島根県有数の実業家でした。また、地元名士として畑迫小学校建設費用や災害罹災者への義捐金など様々な寄附を行っており、地域の発展に尽力しています。
鉱山経営は、大正9年(1920)には堀鉱業株式会社に引き継がれ、日清、日露戦争後は笹ヶ谷と石ヶ谷の鉱山を残して漸次、鉱山は売却しました。同社も昭和3年(1928)には解散しており、日本興業株式会社に経営を委託し亜ヒ酸を製造していましたが、昭和8年(1933)堀氏は事実上鉱山経営から撤退し、笹ヶ谷鉱山も昭和24年に廃山となりました。