津和野文化ポータル

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  1. 亀井茲監

亀井茲監 かめいこれみ Kamei Koremi(1825-1885)

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最後の津和野藩主

 幼い時の名前を格助(かくすけ)といい、久留米藩の有馬頼徳(ありまよりのり)の二男として江戸で生まれました。江戸では儒学や武術を修め、数学を最も得意としました。
茲監は1839年に津和野藩主亀井茲方(これかた)の養子となり、15歳で藩主になりました。当時はまだ天保の大飢饉(だいききん)の影響があったため、茲監はまず藩士の減俸など藩の財政の立て直しに着手しました。さらに藩の特産物である和紙や蝋(ろう)などの増産を奨励し、外貨の獲得につとめました。
さらに、茲監は学問に力を入れ、藩校養老館の改革にも取り組みました。新たに国学科を設けるとともに、国学者の岡熊臣に養老館の学則を作らせました。養老館に優秀な先生を招くとともに、有望な人材を江戸や大阪などに派遣して勉強させました。
外国からの開国圧力により国内は騒然(そうぜん)となり、藩としていかに対処するかに悩んだ茲監は、福羽美静(ふくばよしず)や桑本才次郎(くわもとさいじろう)らを京都に送り天下の情勢を逐一(ちくいち)報告させました。津和野が舞台となった1866年の長州と幕府の争い(第2次長州征伐)においては、幕府と長州藩の間にたって交渉を行い、幕府の軍(ぐん)目付(めつけ)を長州に引き渡すとともに、長州軍に対しては城下を通らないよう約束を取り付け、城下を戦火から守ることができました。
明治になり、茲監は参与職神祇(さんよしょくじんぎ)事務局判事となり新政府に仕えることになりました。明治天皇の即位新式制定にあたっては、部下の神祇官判事福羽美静の指導のもと、津和野藩士の佐伯利麿(さえきとしまろ)、井上瑞枝(いえのうえみずえ)らが大いに活躍しました。
1869年の藩籍奉還(はんせきほうかん)後は藩知事として政治にあたりましたが、1871年5月茲監は廃藩を建白し、津和野藩は浜田県に編入されました。1876年に家督を茲明にゆずり、1885年熱海の別邸にて61歳で亡くなりました。

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