津和野文化ポータル

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  1. 堀藤十郎

堀藤十郎 ほりとうじゅうろう Horito Jyuro(1853-1924)

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中国の銅山王

 15代藤十郎は、本名を礼造といい、1853年(嘉永6)、畑迫の邑輝(むらき)に堀伴成の長男として生まれました。礼造は、弟の昌造(しょうぞう)とともに藩校養老館の漢学の教師であった山口弘烈の家に下宿して養老館で学びました。養老館の廃止後は自宅に戻り、堀家所有の建物を使って畑迫小学校を開校しました。児童には衣服や学用品を支給するとともに、自ら教師となって子供たちを指導しました。
1875年(明治8)、23歳で堀家の当主となった礼造は、銅山の経営を引き継ぎました。礼造はその才能を銅山経営にいかんなく発揮し、事業を次第に拡大させ、最盛期は中国地方一円の銅山を経営するほどになりました。世間では彼のことを中国地方の銅山王と呼んだといいます。
津和野で最も大きい鉱山であった木部の笹ヶ谷(ささがたに)銅山では銀や銅、亜鉛鉱を生産しました。礼造は火薬発掘法の導入、精錬工場や選鉱場の近代化など、先進的な技術を取り入れて採掘量の増大を目指しました。自家発電も1892(明治25)、島根県内で最も早く行われたといいます。
1892(明治25)、礼造は銅山で働く人や地域の人々のための病院を建設しました。医者は九州から名医を呼び、当時最先端であったレントゲンなどの設備をいち早く導入しました。また、1914年(大正3)には日原の晩越(おそごえ)で石見水力電気株式会社を設立し、事業用としてだけでなく、広く一般用に配電しました。このほか、学校の設立費用や道路の建設費用などを寄付するなど、地域の発展に大いに貢献しました。
こうした社会的貢献に対して、多くの勲章や感謝状を受けましたが、1924年(大正13)、腎臓病が原因で72歳の生涯を閉じました。
現在、堀氏の母屋、庭園などは「旧堀氏庭園」として国の名勝に指定されています。

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