畑迫病院とは

畑迫病院は明治25年(1892)、畑迫村の実業家堀礼造によって創設された私立病院です。鉱山業によって財を成した堀礼造が、地域住民へ医療を安価に提供する機関として設立しました。
その後、各地に施設を整備し、大正9年(1920)には畑迫病院本院の他、笹谷支院、津和野分院、木部出張所という体制になっています。
鉱山業の不振等で堀家が経営権を手放した昭和6年(1931)以降、経営者の移り変わりによって畑迫医院、畑迫診療所と名称を変えながら地域に根差した病院として機能していましたが、昭和59年(1984)に閉院しました。現在、明治25年(1892)開院当初の建物は失われていますが、大正6年(1917)に増築された新館が敷地の西半部に現存しています。

畑迫病院とは

(大正時代、本館〈右〉と新館〈左〉の様子)

外構造園について

病室や手術室に面して、薬樹であるアオギリが植えられており、前庭部には鍰(からみ)煉瓦(笹ヶ谷銅山の精製物から製造された)を用いて花壇が造られていました。堀家の主屋背後の温室で育てられたチューリップやオジギソウなどの草花が移し植えられ、その他にも、ドクダミなどの薬草も栽培されていたと伝えられています。また、東側の外来患者用の玄関前の広場の中心には、円形の築山も残っています。

外構造園について

(花壇に用いられたカラミ煉瓦)

畑迫病院跡は堀氏関連の重要な福祉医療施設の遺跡であり、その敷地は近代病院造園の遺構として貴重であることから、平成17年(2005)に国指定名勝旧堀氏庭園の一部として文化財指定されました。
平成24年(2012)には津和野町が保存修理工事に着手、大正6年(1917)築造の新館部分を昭和初期の形で修復し、平成28年(2016)11月旧畑迫病院として開館しました。外構造園部分は花壇と薬草園として整備し、本館棟跡・旧病室棟跡・1号便所跡については遺構位置表示をしています。

畑迫病院跡

(遺溝位置表示された本館跡)